2014/04/23

父の七回忌。行く川の流れは絶えずして…

2月だったか、次男と次男の娘二人と映画「永遠の0」を観た。その後しばらくはサザンオールスターズの主題歌「蛍」を聴く度に電車中でもどこでも涙が出そうになった。

 

「感動しちゃったの?」

「うん感動しちゃった」

クレジットロールが巻き終わって、館内に照明が入ってもまだ泣き顔している私に3年生の下の娘が言ったストレートな問いかけに、私もまた、素直に答えた。

6年生のお姉ちゃんは明確に内容把握ができたようで、やっぱり泣きはらした顔をしていた。

 

2次世界大戦が舞台の「蛍」は昭和16年、すなわち開戦直前からストーリーが始まる。私が24年、終戦直後生まれだから、つまりストーリーの登場人物たちは私の父母と同世代なわけだ。父は学徒動員で戦地に赴き辛うじて生きながらえ、終戦後復学して、女子に対して開かれた門戸を叩いた母と出会っている。

映画を見ながら、ストーリーに感作したのはもちろんだが、多分に父が想われて胸が痛かった。

「そういえば父も、軍隊の話しを、しかも同じ話を何度も何度も繰り返ししてたな」など思い出した。私の中に残っている父の戦争話しはオムニバスの短編集のようではあっても、一話一話の関連性は、いまひとつ明確ではない。ましてや全体の史実とどのように噛み合っているのかなど、てんでわからない。

 

映画のように真実を掘り起こすとまで言わないまでも、もう少し心寄り添って父の話を聞いてやればよかった。歴史を学ぶようなつもりになって、史実との関係も知ろうとすればよかった。父の周り祖父や祖母や伯母叔母のことも、たくさん話してもらうんだった。そう思うと切なかった。

 

長野方面へ山を登りに行く時に車窓から山々が見え始めると、父の面影が脳裏をよぎる。何という訳なく山を始めたと思っていたが、いつの頃からか、父とのえにしを強く感じるようになった。長いこと父が長野出身者だということが眼中になかったのだが、ある時ふと「そうだ父はひょっとしたら、朝な夕な毎日、この風景を見て学校へ通い姉妹と戯れ、育ったのだ」と思い当たった。私が山を登るようになり、長野方面へ行かない月はないほど足しげく山々に通うようになったのも「何、訳なく」なんかではなく、血脈に導かれての縁だったのだと実感された。

 

育ちゆく間は何かと父が疎ましかった。母をしてさえ「底のない井戸のような人」つまり愛を投げても、憎しみを投げ込んでも音がしない、それほどに他人のことが眼中になく自分勝手。「胎児が母体を内側から蹴るように誰でも頓着なく蹴り飛ばす」と言わしめた父。今思い返してもすぐに思い浮かぶのは、ろくでもない思い出ばかりなのに、時が様々を洗い落とし、すっかり浸食した後に、わずかに顔を出した光る粒子だけが今では目に入る。父と一緒にシュンランを探しに奥多摩に行ったな、とか、一緒に粘土こねしたなとか、春の陽だまりのような光景だけが心懐かしい。

 

父をそんな風に評価した母もまた、私にとっては父に輪をかけて面倒くさい存在だった。寄ると触ると葛藤していた。二人とも生きている間はさんざんに私を悩ませ、「いつまでこの苦痛が続くのか?!」と陰々滅滅とし「いい加減いなくなってよ、私を開放してよ」と願わずにいられない自分自身を嫌悪して沈んだものだった。

父を送った時は母と一緒だったが、その母が逝ってしまうと途端に「後がない」という思いに駆られ背中がうすら寒いような存在の孤独に捕らわれた。

あんなに忌み嫌っていた母だったが、存在があるというだけで、私という存在を加護していたのだという気づきに打ちのめされたものだった。

 

そんな様々が映画を見ている間中、胸をよぎり、ストーリーの高まりと心底の溢出が輻輳して涙が止まらなくなったのだった。

 

映画を見てから2か月。気が付けば時は経ち、わずか2か月の時の流れが作用して「蛍」を聴いても、切なくはなってもどこここでも涙がこぼれることもなくなった。

6年生だった孫娘はこの4月に中学生になった。わずかな時の流れであっても、中学生になった孫娘はたった昨日までの小学生とは数段「娘」らしくなって入学式の写真に写っていた。

母が逝って2年が経ち、当初ほど存在の孤独におびえ震えることもなくなった。父が逝ったのは6年前の423日、八重桜も花期を終えようという候であった。先だっての日曜日7回忌を済ませた。

 

―ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。―

 

むべなるかな…



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2013/07/30

叔母の見舞

724日、叔母の見舞いで、うちのGと松戸の病院にでかけた。1週間ばかり前になるか、従弟から連絡があり「叔母がいよいよ弱ってきており、認知症が進んで息子である従弟を認識できなくなった」と。

わざわざ連絡してよこした心中を想い、是非にと出かけることにしたのだった。

 

病院の受付で従弟とその息子と落ち合って、病室に入った。

まずGが顔を覗き込んだが、目が空を泳ぐばかりで叔母は何の反応も見せなかった。次に私が叔母の顔に顔を近づけて言った。

「おばちゃん!あきこです!!しょういちの娘。しょうちゃんの娘のあきこです!」

聞こえたのかどうか「?」な感じだったのでダメかな、と思った瞬間。

「あこちゃん」と叔母が大きな声で言ったのだ。なんだか懐かしい「き」と「こ」を一度に発音したような叔母独特の「あこちゃん」の言い回しと声色。

 

再び叔母の顔に顔を近づけて

「そうそう、あきこですよ」

おばが続けて言う

「あこちゃん、あこちゃん」

「はい、はい」

と私。

そしたら叔母が

「あこちゃん、うれしい!」

そう言ったのだ。しかも叔母は、バイタル維持に必要なラインを引き抜いたりしないようにと、手首がマジックテープでしっかり止められたミトンをはめられた両の手を私の頭の後ろに回し、私を抱き寄せたのだ。自分の頬を私の頬に押し付けて、何度も何度も言う。

「あこちゃん、うれしい!」

 

従弟から電話をもらった時に

「ボクのことも、もうわからなくて、ボクの顔見て『しょうちゃん』言うんですよ」

そう聞いていた。「おかあちゃん大好き」宿命の息子族には、なんとももの哀しいことではあろうというのもあって、早いうちに見舞おうと急ぎもした。

もしかしたら「しょういち」をキーワードとして叔母の記憶海馬を揺することができはしまいかと期待しての私の「しょういちの娘だよ」呼びかけではあったのだ。

 

「しょうちゃん・しょういち」というのは2008年の春に亡くなった私の父のことであり、http://asobist.txt-nifty.com/asobist/2008/04/post_5680.html

叔母はその妹にあたる。6人の姉妹と母親と、つまり7人の女性に甘やかされて育った父は、やんちゃくちゃの我が儘放題であったと、その昔、叔母から聞いた。年も近く気丈な叔母とは、ことさら中も良く反面、よくけんかもしたと。

 

「よっぽどお兄さんのことを誇りに思ってたんでしょうかね」

と従弟は言う。

父は戦前の帝大生で、確かに片田舎の小さな村から「帝大生が出た」というのは仰天トピックスであり、家族にとっては胸張ることだったろう。

けれど私が思うに、我が息子のことを分からなくなっても「しょうちゃん」と呼び続けるのは、父が誇るべき人物であったからでは決してなく、外層から萎縮していった叔母の脳が一定以上新しい期間帯の記憶の消失が進んだ果てに、大半の機能を失ってしまったが故に、なおのこと残存海馬だけが活性されたかに見えるに過ぎない。

叔母の周りには姉妹が集い、父母もいて、その中で兄とも戯れている。むしろ過ぎ去った過去にしか住めなくなってしまっているのだ。

だからその「しょうちゃん」に触発されて、叔母の脳みそは、ほんの少しだけ時の流れの「時管」をたどるという作業をやってのけ、その娘の「私」を認識できたのだろう。少なくとも、そう見える状況がつくり出されたのだ。

証拠に、ひとしきり「あこちゃん」「はいはい」を繰り返したあと、叔母の体から離れた途端、叔母はもとの無表情、無反応に舞い戻ったのだから。

その後はもう、二度と会話が成立することはなかった。痩せ細った腿や糖尿病が進んで切断せざるを得なかった、膝から下とわかる、丸くなった足先をタオルケットの上から撫ぜても、叔母はずっとなぜか「ひとつ、ふたつ…151617…」とずっと数を数えていた。

 

しばらくして看護士さんがやってきて入浴の順番を告げたので、従弟ともども退室することにした。

 

従弟が看護士に私を指して言った。

「この人が、あの『しょういちさん』の娘さんです」

「あらー、そーなんですねー」

看護士が笑って言う。

「有名人ですよね、『しょういちさん』は」

従弟も笑って言う。

 

私も独りっ子なら従弟も独りっ子。昨年父を亡くし、母もまた風前の灯如くに命揺らす母を前に、従弟の心中いかばかりかは推測するに余りある。蝋燭皿に溜まったわずかな蝋液に先だけ蝋芯を出して、いつ消えるともない小さな灯がついに「ヂヂ」と消え果た先の闇に、従弟に訪れる存在の孤独を想うと、今から胸が痛い。

 

「仕事中にかけつけたみたいだけど、返って悪かったかな」

帰りの車の中で言うと

「いや、彼もあんたと会いたかったと思うよ。あんたには逐一、知っといてもらいたかったんだよ。だから、わざわざ連絡してきたんだよ」

Gが言う。

 

まだ灯が灯っているうちに「忙しい」ばかり言ってないで、一度従弟夫婦と誘い合わせて、ご飯会でもすればいいかな!

など、しみじみそんなことを考えたことだった。

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2013/07/07

母の法事

76日土曜日。母の法事が済んだ。

1200から初盆、1300から1周忌。

なんでも宗派によって初盆のとらえ方が違うようで、真言宗では昨611日に亡くなった者は今年なんだそうだ。長野にあった墓を日野に移したのは父なんだが、もともと浄土真宗だったのが、日野の寺は真言宗だということを知らかったわけはなく、信心がないんだか、実質主義なんだか、真意のほどは聞かなかった。

初盆はたったの15分。1周忌も20分やそこらで終わった。

「ご寄進が足りないからだよ」

Gが言う。

「なんとかの沙汰も金次第、そこらへんで墓地の位置も違うんだよ」

うちの墓は高台にあって、10段ぐらいの石段を4回登らなければならない。

「いいよ、あのくらいで」

長男のヨメさんが言う。

「死んでからまで階級闘争せんでもいいわ、言うてたから」

と私。伯母(母の姉)が亡くなって戒名をいただく段で母が言ったセリフだ。

「生きてるもんの階級闘争だよ」

Gの言う通りだ。ならなおさら、そんなのは必要ないと思う。

チビたちが退屈のあまりもぞもぞし出す前に終わったのは、勿怪の幸いだし、汗かきかき石段登るおかげで見晴らしがいい。向かいの小山のサマーランドの観覧車がよく見える。2013070601


怒涛のような56月だった。

母が逝った後の様々な片付けごとは、なんだかだで1年かかったということなんだが、5月はその最終局面だった。家の中の片づけ、動かなくなった車の処理。父が亡くなった後、母があんまりごちゃごちゃ言うもんだから、ほっておいた父の遺産相続の追徴金を後から大枚払う羽目になり、しかもご丁寧に追って延滞金まで搾り取られた。

すっかり片付いて掃除も済んだと業者から報告を受けたものの、状況確認もしないまま、530日に仮契約、613日に最終契約が成立し、実家は人手に渡った。お隣さんが買ってくれ、娘さんのともちゃん一家が、リフォームして住むというのが、せめてもの慰めなのかどうか…

「あの家ね、売っちゃったんだよ」

胸の内で母に報告した。

父と母が共働きして、爪に火を灯すようにして倹約して持った家を、汚いもの離すように手放した、というわけでもないんだが、持っておくのもできない相談だった。

「だけどね、その代りね…」

「ジムができたんだよ。ロックアンドウォールっていうんだけどね」

ボルダリングジム『Rock&Wall』は628日に開店した。

http://www.asobist.com/guest/kodama2/datin130705.php

母が自らの人生をどう総括したかはわからないが、娘はかなりロックな終盤戦折り返しだし、法事には孫だのひ孫だの寄ってくれるわけで、そこそこいいんじゃないかとは、私の勝手な言いぐさかもしれない。

法事を終えて昼をして、家にたどり着いたら、どっと疲れが出た。テレビを見ているつもりがいつの間にか寝込んでしまい、玄関の「ピンポン」に起きたらすっかり日が暮れてしまっていた。

宅配は大阪の三男からでDVDが入っていた。

しばらくしてかかってきた電話で聞くまでもなく、74日だった私の誕生日祝いだった。

2013070602

不思議だよね~

だってさ、クライミングとかやってるとは話してたけど、ジム開いたなんて三男には電話もらうまで一度だって言ってもないのにね~

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2013/06/14

ルーツ喪失?!!

全部終わった。

昨日2013613日、実家の売買契約の最終締結をみた。すなわち、完全に人手に渡ったということ。

母が逝った後、遺った家をどうしようと何度か足を運んだが、その度何も手が付けられずにすごすごと帰った。実家はゴミともつかない物の山と膨大な量の書物で溢れかえっていた。家を賃貸に出すにせよ売却するにせよ、屋内の整理は必須だった。

学者であった父母の蔵書である膨大な書物はそれぞれ教壇に立っていた長きにわたり大学の研究費で購入されたものであり、その「印」が押されている以上、建前上、所有者は依然として「大学」なのだった。同門の志には有用だろうから、なんとか役立てる方向も模索したのだが、例えば大学側からの「所有権放棄」であるとか「処分済み」あるいは「処分委譲」の一札がなければ10円だって根が付けられないと古書扱い業者は言う。

大学に問い合わせれば「そういう則はない」「全て送付せよ」「送料は出さない」はともかく、もし送付すれば「処分するだけ」と言葉丁寧であっても哀しくなるような返答。今となっては、どうせかなりな処分代になるなら、大学に送りつけてやればよかったなど口惜しくもある。

全ては「ゴミ」として処理するというのが、すったもんだの末にたどり着いた結論だった。読もうとしても1行だって頭が痛くなってしまうような哲学の専門書は私にとっても無用の長物に過ぎなかった。


家に入ったのは清掃前に取り置くものを見に行ったのが最期で、そのころには既に「賃貸」ではなく「売却」に心を決していた。1階の南向きの最も快適なほとんどのスペースは書庫に当てられていて、作り付けの書棚が林立しているような家を借りるような人がいるとは思えなかった。

ともかくも家に出向き時間をかけてもいいから、取り置きたいものを選りだす。作業が済んだ連絡を受けて夫が車で迎えに来る、という段取りで家に入ったが、あまりにも膨大な「物」の洪水はむしろ、いわば惨澹たる有様で、ただ圧倒されて呆然困惑してしまうばかり。わずかに母が半紙にしたためた短歌の数枚と、父の詩だの散文だのが掲載された古い文集だのを少しだけ持ち帰ることにしたのだった。

業者から「物」の排出は終わり、清掃も終了した旨の連絡は受けたが、すっかり片付けられた家を見に行く気には到底なれなかった。

私の脳裏にはゴミと本でごった返したカオスのままの屋内があるだけ。永遠に。それでいい。

「大事に使うから~」とおばちゃんは言った。

買主は実家の隣の一家だったのだ。

「近くに来たら、寄ってください~」と隣のおばちゃんと同居している娘さんの智ちゃんは言ってくれた。

けれど、私があの家の中に足を踏み入れることは2度とない。恐らく周辺に近づく機会すらないだろうと思う。


うっすらと夕もやのように漂うこの喪失感は何だろう。

今日で母が亡くなってから1年と3日が経つ。

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ホームに入居する前に母に持たした筆記用具。認知症の進行を食い止める一助になればと思ったんだが、母が使った気配は皆目ない。

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母の遺作?やっぱりにゃんこだ。

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2012/08/07

ハハコグサ-1:2012/07/03@あずさ17号

沿線で事故があったとかで1時間ほど遅延してあずさに乗り込んだ。といったって、明日からの剣岳登山を控えた前泊で、夕食に間に合って大町温泉に着けばいいだけなので、気分はのんきなものだった。

ipodでサザンを聴きながら、流れゆく車窓を眺めていた。
『月光の聖者たち』好きな曲だ。
エンド…
♪~抱きしめたい~もう一度~♪
聞き終えた途端、訳もなく、泣くでもなく、突然、壊れた水道の蛇口のように涙が落ちて止まらなくなった。

例えば道を歩いていて、バスの窓から外を眺めていたりする時、いきなり降って湧いたように母の面影が脳裏をよぎる。
新みどり病院の病室に横たわっていた母。
「しんどくない?」
尋ねたら、頭を振った。
「胸の苦しいの、もうダイジョーブ?」
には、『うん、うん』と頷いてみせ、何度も起き上がろうとした。
「いいから、いいから。寝てていいから」
その度に、そう言って制した。

あの時、母は起き上がって何をどうしようとしていたのだろう。亡くなってからもずっと、頭の隅から消えずにいた。それがわかったのは私が母の娘として母を考えている時ではなく、むしろ私が母として息子らのことを考えている時だった。私ならどうしたかったろうと思えば自ずと知れたことだった。母は自らの終われりを知り、最後に私を抱きしめたかったんだ、と。

ああ、抱きしめてもらえばよかった。

これまでも折に触れ父や母のことを書いてきた。読み返してみて改めて、その意味を再発見する思いだ。まだ書くことがある、と思う。父や母との関係性を通して、もう一度内省することでしか、もやもやした情緒不安定から脱することは叶わないと感じている。

本ブログ「日々楽観」を読んでいただいている皆様には、お退屈やもしれないが、どうか愚痴にも等しいモノローグ「母娘物語」にお付き合いいただければ幸いこの上ない。

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2012/06/12

母、逝く…

いつどうなっても不思議はない、と思う半面で、もう3、4年は生きるものと思っていた。
6月11日朝5時5分、母が逝った。
あまりにも急で、びっくりしている。

6月9日
淵野辺のクライミングジム、ストーンマジックから帰ってきて、食事の支度をしていたらホームから電話。「胸が苦しい」と母が訴えたのでバイタルをとったら、血圧が高く、脈は速い。ついでSPO2の値も低い。要受診と判断し、受診の延長線で入院も可能な受け入れ先を探している。病院が決まったら、必要手続きをしに病院へ、ということだった。20時過ぎ?

急いで食事を済ませた。ちょうど食べ終わったころにまた電話が鳴った。母は横浜新緑総合病院に搬送されたという。

当直の医師曰く
「状態はまず安定しているから、このまま帰ってもいいぐらいだが、せっかく来たから検査していきますか。週明け1日2日で退院だな」

病室をのぞいたら、母が目を覚ました。
「しんどい?」
母は首を横に振った。
「胸の苦しいの治った?」
母は頷いた。

なんだかだで家に戻ったら深夜の12時を回っていた。
当座の新緑病院の当直医の診断を聞いて安心はしたが、「翌日の行動」を迷った。
「やはり明日は自宅待機かな~」
翌6月10日は日和田でクライミングの予定だった。迷った挙句、早朝6時50分に予約したタクシーをキャンセルしようとした。何度かけてもタクシー会社は出なかった。業務終了だったらしい。

6月10日
「行ってもダイジョブってことかな?」と考えて、予定通り日和田クライミングに参加した。
駐車場から岩場へ向かう途中ザックの天蓋で携帯が鳴った。ドキリ!
昨夜の当直の医師だった。ドキドキ!!
もしかしたら、このままトンボかな?一瞬よぎった。午前10時ごろ?

「今朝方、ゼンソク様の咳が出て、どうも心臓の働きに原因がある疑いが考えられる。検査の必要があるから、少し入院が長引くと了承してください」

今日明日どうこうではないニュアンスに胸をなでおろし、岩場へ向かった。終日、楽しかった。

夕食にそうめんでもと、台所に立っていたら電話。新緑の医師から。なんかプリプリしている。どうやら何度か携帯にかけたが、私が気が付かなかったらしい。
母の容体が急変した、と。
「心筋梗塞の疑いが濃いが、当院では専門外で的確な診断も治療もできない。治療するのなら移送しなければならない。どうするか?」

言われていることが理解できなかった。「移送するかしないか二者選択」が何を意味するのか。
「ホームに連絡したら、緊急事態の際の方針について意思確認が取れてないと。入居の時点で考えておかないでどうするんです?!」

たとえば母が自発呼吸ができない状態に陥ったとして「気管切開して挿管するか?」と問われれば、答えは「NO」だ。それは入居時に担当に伝えた。が、それと同レベルの状況なのかどうなのかがわからない。わからないものはわからない。

「わかりません」
「じゃ、誰が判断するんですか!?」

私が判断すべきとは知れたことだが、判断の基盤がみつからない。
「どういう治療なんですか?」
「それは専門でないと正確には言えません」
「たとえばの憶測でいいんです」
「まあ、カテーテル治療ですね」
「それって、いわゆる延命治療なんですか?」
「全ての治療は延命治療です」

そんな大前提を聞いているのではないつもりだった。最も当惑、驚愕、困惑のさ中にいる者の神経などまったく頓着ない高圧的なもの言いに「???」は増大するばかりだった。
すったもんだの末、専門科を持つ病院へ移送をお願いした。だって、意識はあるんだというし。

移送先決定を待つ間に、そうめんを茹でた。食べ終えたら電話が鳴った。
移送先が決まった昭和大学藤が丘病院に駆けつけたら母はまだ到着していなかった。
救命救急の受け付けにくれぐれもインフォームドコンセントをとお願いした。母がパスタに絡め捕られるのは避けたかった。

追って駆けつけた夫と診断処置を終えた?医師の説明を受けた。21時ごろ。
心筋梗塞でカテーテル治療が必要だが、治療するか?と問われた。新緑に投げた同じ質問を繰り返した。
カテーテル治療の概略、その延長に待つもの等々、医師はわかりやすく丁寧に答えてくれた。私もきちんと気持ちを伝えた。

それでも迷った。カテーテル治療を始めるということは、すなわち積極的治療を決定したということであるが、治療が功を奏すかどうかは保証の限りではない。その先改善が見られず急変すれば人工心臓に繋がれることになる。気管挿管もあり得る。
迷った挙句治療をお願いした。余りにもの急変に「このまま、終わり」は受け入れがたかった。
その間わずか、もの数分だったはず。意思決定を伝えた直後、医師の白衣のポケットで携帯が鳴った。医師はそそくさと控室を出て行った。

戻ってきた医師は、さらなる急変を告げた。
心臓停止に至った。思わず立ち上がってしまった。蘇生マッサージ開始後30分以上経過。強い強心剤の投与でようやく心肺が回復したが、瞳孔が開いてしまっていると。

もはやカテーテル治療は意味をなさなくなった。呼吸補助など維持しながら、自然な「時」を待つことになった。

しばらくして横たわる母は「しんどい?」に首を横に振った時とは別人のようだった。
「おばあちゃん、大変だったね」
かけつけた次男が頭を撫でた。
「おかあさん、大好きだよ」
私も声をかけた。聴覚は最も最後まで働くというから。

母は低空飛行を続け、病院の指示で一旦家に引き上げた。深夜零時を回っていた。
「腹減った」
夫と次男は夕食がまだだった。そうめんを茹で、簡単なおかずで二人が食事を終え、ひと寝しようとしたところへ電話。慌てて病院へ向かった。車中でようやく連絡のついた長男を途中で拾って駆けつけた。11日午前2時過ぎ。

脈拍が落ち血圧もとんでもなく低くなっていた。
「おばあちゃんタカだよ」
長男が頭を撫でた。私も頭を撫でた。
頭を撫でた瞬間、どうゆうわけか母の血圧が2、3上がった。

4時を回ったころ、仮眠もできる控室に案内された。それならと、夫と次男は一旦家に引き上げ、長男と私が残ることにした。
「タバコも切れたから」
長男にコンビニで携帯の充電器を買ってきてもらっている間、とろッとした。

「急いでください」
ナースが呼びに来た。

瞬間にすべてが終わっていた。
「最後の一瞬を見たよ」
長男の目に飛び込んだ計測器のわずかな母の脈拍数の最後の値「19」が、視認した瞬間「0」になったのだという。

たらちねの母は逝きけり
梅雨寒に
あじさい震え
葉先より雨つぶひとつ

雨音も病窓に届かず
管も器も命繋がず
孫子の声も母に届かず

八十八長き
巡りて果ての病床に
ただ響きおる
ピピピピピー

考えた挙句、遺体は葬儀社に安置してもらった。一昨年叔母の葬儀をしたところ。午後3時に葬儀の打ち合わせの約束をして帰宅した。
疲労困憊で、ただただ眠りたかった。

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2012/05/17

開幕!HIYASHI FESTA 2012 SUMMER!!

「お知らせ」「FESTA」「ちんどん」「父母の記」のご多混ぜ、てんこ盛りで今日のMy Blog「日々楽観」のお届け。

・ますはお知らせ!
「編集長!今日はどちらへ
__登りがけのだちん__」に
■恐怖!アバランチ・ハザード・トライアングル実感@唐松岳
http://www.asobist.com/guest/kodama2/datin120425.php
特集連動で
■「塔ノ岳」の「塔」って?
http://www.asobist.com/guest/kodama2/datin120516.php
2本UPしております。

・そしてFESTA。
PRE FESTAは私が「あ、今年も冷やし中華の季節だな。食べたいな!」と思った瞬間。開幕はシーズン初の冷やし中華をいただいた、その時。
そう、なんのことはない。私が勝手に世界の(ないない)冷やし中華を食べてはUPする、っていう、それだけなんである。
で…

今年も元気に開幕!
渋谷桜ヶ丘「一品香」の冷やし中華。2012/05/15
20120515hiyashi02
ゴマダレがなんとも香ばしい!美味!!★★★★
PRE FESTAを誘った記事が以下。
http://www.asobist.com/entame/sakura/20120510.php
この次は醤油ダレの方をぜひ!!!


20120517hiyashi01
渋谷・道玄坂「大島ラーメン」の冷し中華。2012/05/17★★★

相当、期待した。何をって…
一昨年はひと夏に何度も食べた。あの冷やし中華独特の酸味を「大島」ではレモンでとっていて、出来上がりにも8分の1?切れ(輪切りじゃないよ)のレモンが添えられている。じゅわーッと絞ると爽やかな香りが、なんとも大好きだった。
ところが昨夏・シーズン初め、勇んで訪れてびっくりした。レモンが載ってない!!!それは「何かが違う」原因がそれと認識されるまでに時間がかかったほどだ。
「店長が代わったから」
シャフの説明には到底納得できなかった。

期待が外れたことは、ご覧の通りだが、またまたびっくりなことに、「ひやし(冷たい汁そばなど数メニュー)」限定サービスで「杏仁豆腐」がつく。まあ、まあ、美味しいデザートなんだが、採算の都合でレモン」止めたんなら、杏仁要らないから「レモンに戻せ」と声を大にしたい。
憤懣やる方なくソバを啜っていると、果たしてこの酸味がレモン由来なのかどうかさえ疑念が湧いてくる。切ないやね!
と…
何か気持ち硬いようなのが歯にあたった。出してみたら、なんとレモンの種だった。
めちゃめちゃ、嬉しかった。
大島はデンバーUSA店とかではLAMEN-SALADとかで出してるのかな?なんぞ思った。

とか、text打ってたら窓の下から賑々しい音。カメラひっつかんで外へ飛び出した。
のが、これ!!!
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・ちんどん
「老人ホームとか喜んで行きますよ。ボランティアで」
チンどん芸能社のさん休(永田 久)さん。
「あんまり仕事ないから、ぶらぶらしてますよ、普段は」


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・母のところに行ってきた。

遅ればせながら母の日プレゼント携えて。なぜって…
山から降りてきたら長男のヨメさんに「例年の三男からのカーネーションが届いてるかもしれないから、不在票とか確かめた方がいいよ」と言われたが、そんなものはなく、来れば来たで「そんなことせんでもええし」と言うくせに、来なけりゃ、やっぱりちょびっとさびしい、など思ったから、じゃあ、母にしてやろ、など、ただの気まぐれなんだが。

ブラウスと編みポンチョ。
「ありがとう」とは言ったが、それっきり、あまり興味を示すふうでもない。話をしたがるわけでもない。ただ、ぽややんとテレビを見ている。ってか、眺めている。
で、訊いてみた。
「テレビ、ちゃんと聞こえる?」
「よく聞こえないわ」
「じゃあ、なんのことやらわかるの?」
「よく、わからないわー」
「それじゃあ、チョメシロ(母が世話をしていたネコの名)がテレビ見てるのと同じだね」
そしたら、
「ぷふッ」
母が吹き出した!!!

いやいや、どうして!チョメシロ以下の運動機能しか残されていなくても、チョメシロと同等の、あるいはそれ以下の記憶力その他の脳機能でも、チョメシロを優に凌ぐユーモアセンスと理解力ではないか!!
謎だ!!!

と、ここまでtext打ったら、また外で賑やかな音曲が…
窓から顔出して手を振ってみる。
「さん休さ~ん!!!」
「ど~も~」

ファンキーな日だ。

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2012/04/19

春の帽子

4月19日
母のところへ行ってきた。

車椅子に腰かけたまま母は居眠りしていた。
「お母さん」
声をかけても起きない。肩先をぽんぽんしても起きない。身体を軽くゆすってみても起きない。ガコガコ揺らして無理矢理起こした。
ぼんやりしている母の鼻先に顔を突き出して声をかけた。
「お母さん」
ちょっと目をむいて、でもすぐ嬉しそうに、にっこり。
「だーれだ?!」
「あきこちゃんだぁ」

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「ねねねね、見て見てぇ」
買ってきた帽子を出して見せる。
せんだって訪ねた折、傍らに置いた毛糸帽を大事そうに手に取ったり、またテーブルに置いたりしていた。
「春らしいのがひとつあるといいね、今度買ってきたげるね」
と言ったら、とてつもなく嬉しい顔をしたのだ。

「ほらほら、きれいな色でしょ。お花の刺繍だよ。キラキラもついてるよ」
母はいちいち「うんうん」な顔をしてニコニコ。

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早速被らせる。
「お、似合ってるよ。はい横向いて、真っ直ぐ向いて」
立派なモデル?!さんだ。
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ケアスタッフの方にツーショットも撮ってもらった。
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撮影会?!が一段落したと思ったら、またズズッと居眠ってしまう。
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「今日はお風呂の日で、お腹もいっぱいだからね~」
ということだった。

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ちょっといたずらしてみた。
ツーショットをお願いしたら、ケアスタッフさんが母の注意を向けるのに、小さな縫いぐるみを自分の肩先に載せて
「この子誰だ?」
「チョメシロだー!」
その母の満面の笑顔ったら。
これ、受けるだろうな、母に。

また起こすのもなんだから、ひきあげてきた。

エレベーターに乗ろうとしたら、そばに腰かけていたおじいちゃんが
「お疲れ様でした」
で、思わず
「お世話様でした」
そしたら
「頑張ってください。ボクもここで頑張ってます」

そーだね、私も頑張るわ。



新シリーズ「編集長!今日はどちらへ?__登りがけのだちん__」に
ラスト雪山&アイスクライミング@南八ヶ岳
http://www.asobist.com/guest/kodama2/datin120413.php
UPしております。
よろしくです~

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2012/04/05

憂し、春!

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4月3日、ピオレ・ド・オール賞を受賞しているアルピニスト、佐藤祐介さんの取材で山梨県石和温泉にでかけた。駅から車で20分のクライミングジム「ピラニア」でインタビューの後、登っているところを撮らせてもらった。

やっぱりカッコイイです~!!!

*佐藤祐介さんのインタビュー記事は6月掲載の予定。
5月のVIVA ASOBIST掲載記事はエコール・クリオロのサントスシェフ&岡田愛さん。
いずれも、お楽しみに~

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4日は笛吹市内のあちこちを取材。桃園にも。今年は開花が相当遅れているそうな。終日風が強かったが、夕方は冷えたな~

4月5日
出がけに母のところへ寄ってきた。前日、石和温泉健康ランドへも取材した時に、「そういえば母を連れてきたことがあったけ」など、思い出したからだ。

ブログのアーカイブをたぐって、先回母の顔を見たのが1月12日だったとわかって、今更のようにびっくりした。
どのくらいか前にホームで、お腹に来る風邪で下痢を起こす入居者が続出したとかで「しばらく面会を控えてください」があったにしても、週末ごとに山行しているとしても、家のPCが壊れてセットアップがあったにしても、たとえ何があったとしても、理由にはならないほど、母のところへ出向かなかった。

ホームのリビングでしょこんと座っている母の後ろ姿は、情けないほどに小さく見えた。
「お母さん」
少し耳が遠くなったかして振り向かない。頭を撫でてみた。撫でられるままにうつむいて、顔をこちらに向けようとしないので、鼻先がくっつきそうになるぐらい覗き込んだ。
「お母さん!」
「ああ」
ようやくの笑顔。
「あきこちゃん!」
よかった~。まだ私がわかる。

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しばらくして昼食になった。
「どうして入れ歯しないの?」
訊いても返事をしない。
「あんまり好きじゃないの?」
かすかに、こっくり。

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ケアスタッフがすすめても、恐らく母は嫌がって入れ歯をつけないのだろう。それでも食べやすいように細かく刻んだり、すりつぶしたり、調理に工夫の跡が伺える。入れ歯もつけずに歯ぐきや舌を駆使してひたすら一所懸命にあむあむする母がけなげでもあり、情けなく哀しくもあり…

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この胸の内の風紋こそが母から私を遠ざけているのだと思い当たった。昨日と同じ今日が明けて暮れる。だが、明日の命はわからない。そのことを、例えば亡くなった父や叔母・伯母、友を通して経験値で知っていて、どこかで喪失から顔をそむけたいと本能的に動いてしまうのではないか、と。
母だけでなく自身さえとおに同じ域に踏み込んでいると自覚すればなおのこと。

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渋谷桜ヶ丘。246にかかる歩道橋の向こう側は「春爛漫」。ほんの2日前は雨嵐だったのに。時の足はかように速やかなのだ。

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大和田小学校跡に建ったビルの最上階はプラネタリウム。

行ったことないな~
今度、行ってみよ、っとか言いながらまた時が過ぎるんだろうな~

春はどこか物憂い…

「VIVA ASOBIST」に
山岳カメラマンの白籏史朗さん
http://www.asobist.com/yomimono/viva/vol64.php

「編集長!今日はどちらへ?!」に
屋久島桜
http://www.asobist.com/guest/kodama2/20120322.php
ヒマラヤ・アゲン2011‐1
http://www.asobist.com/guest/kodama2/datin120321.php
桜咲いたか?河津の桜
http://www.asobist.com/guest/kodama2/datin120314.php
うちのチビ太の3.11
http://www.asobist.com/guest/kodama2/20120313.php
アイス日和
http://www.asobist.com/guest/kodama2/datin120307.php

などなど上がっておりまする~

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2012/01/12

ご機嫌斜め…

1月12日
ホームのエレベーターを降りたら、母の姿が見えた。だれか他の入居者と話しをしている。
「あきこちゃんだーッ!!!」
手を振ったら、すぐに私をわかった。
だが、しかし…

どうもご機嫌斜めのようだ。
母はお連れに愚痴を聞いてもらっていたらしい。
本日のお昼はイベント食で外に食べに出かけた。受付でもそれは聞いたし、母は天ぷらと刺身を食べたとも聞いた。上機嫌でしかるべきなんだが。
お連れの入居者が説明してくれた。
母は一定時間内に完食できなかった。都合上、残して帰った結果になった。
「残念でたまらない。もう一度行って残りを食べるから、連れて行ってくれ」
というのが母の訴えだった。

「全部食べるの待ったって、どのくらいも違わないのに、せかさなくてもいいのに」
お連れの入居者は母に同情して、そう言った。

しまいに「今から店に行きたいから、お金ちょうだい」と言い出す。「私のお金はあるのか?」とも。
「お金は、いっぱいあるから安心していいよ。司法書士の気賀先生がちゃんと管理していてくれるからダイジョウブだよ。いつでも使いたい時に使えるくらいゼンゼンOKよ」
と言ったら、少し気が鎮まったようだった。ちょっとしたことがきっかけで不安状態に陥るのかな~

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そうしたら「今日は来てくれてありがとう」なども言ったりする。
「今日はね、おかあさんと二人で撮ろうと思ってたんだ」

ツーショットをケアスタッフに撮ってもらった。携帯でも撮った。

満面の笑みである。

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デジカメのモニターをつくずく眺めている。「よく撮れてるでしょ」と言ったら嬉しそうにする。よかった、ご機嫌が直って。

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そしたら母が言った。
「お山には行ってるの?」

おー!あたしが山に行ってるの覚えてた。スゴイ!!
「行ってるよ、行ってるよ。毎週のように」
ついでに、何の気なしに
「うん、私今年もう63になるんだわ。しょっちゅういかないとすぐ体力落ちちゃうのよ」
母がわかっても、わからなくてもの、ま、いいや!な言だったが、母は目を丸くした。
「あきこちゃんが?63?!」
「だっておかあさんが80いくつかなんだから」
母はさらに目を丸くした。
母の中では時はいつしか止まってしまっているらしかった。

「そろそろ帰るね」と言ったら
「今日は残念だった!」
「ん?」
「ご飯、残してきたんだ」

あらら。

しょうがないよね。「食べ物は決して粗末にしない。食べ残すなんてもってのほか」は暮らしの基本だったんだものね。

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