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2014/04/23

父の七回忌。行く川の流れは絶えずして…

2月だったか、次男と次男の娘二人と映画「永遠の0」を観た。その後しばらくはサザンオールスターズの主題歌「蛍」を聴く度に電車中でもどこでも涙が出そうになった。

 

「感動しちゃったの?」

「うん感動しちゃった」

クレジットロールが巻き終わって、館内に照明が入ってもまだ泣き顔している私に3年生の下の娘が言ったストレートな問いかけに、私もまた、素直に答えた。

6年生のお姉ちゃんは明確に内容把握ができたようで、やっぱり泣きはらした顔をしていた。

 

2次世界大戦が舞台の「蛍」は昭和16年、すなわち開戦直前からストーリーが始まる。私が24年、終戦直後生まれだから、つまりストーリーの登場人物たちは私の父母と同世代なわけだ。父は学徒動員で戦地に赴き辛うじて生きながらえ、終戦後復学して、女子に対して開かれた門戸を叩いた母と出会っている。

映画を見ながら、ストーリーに感作したのはもちろんだが、多分に父が想われて胸が痛かった。

「そういえば父も、軍隊の話しを、しかも同じ話を何度も何度も繰り返ししてたな」など思い出した。私の中に残っている父の戦争話しはオムニバスの短編集のようではあっても、一話一話の関連性は、いまひとつ明確ではない。ましてや全体の史実とどのように噛み合っているのかなど、てんでわからない。

 

映画のように真実を掘り起こすとまで言わないまでも、もう少し心寄り添って父の話を聞いてやればよかった。歴史を学ぶようなつもりになって、史実との関係も知ろうとすればよかった。父の周り祖父や祖母や伯母叔母のことも、たくさん話してもらうんだった。そう思うと切なかった。

 

長野方面へ山を登りに行く時に車窓から山々が見え始めると、父の面影が脳裏をよぎる。何という訳なく山を始めたと思っていたが、いつの頃からか、父とのえにしを強く感じるようになった。長いこと父が長野出身者だということが眼中になかったのだが、ある時ふと「そうだ父はひょっとしたら、朝な夕な毎日、この風景を見て学校へ通い姉妹と戯れ、育ったのだ」と思い当たった。私が山を登るようになり、長野方面へ行かない月はないほど足しげく山々に通うようになったのも「何、訳なく」なんかではなく、血脈に導かれての縁だったのだと実感された。

 

育ちゆく間は何かと父が疎ましかった。母をしてさえ「底のない井戸のような人」つまり愛を投げても、憎しみを投げ込んでも音がしない、それほどに他人のことが眼中になく自分勝手。「胎児が母体を内側から蹴るように誰でも頓着なく蹴り飛ばす」と言わしめた父。今思い返してもすぐに思い浮かぶのは、ろくでもない思い出ばかりなのに、時が様々を洗い落とし、すっかり浸食した後に、わずかに顔を出した光る粒子だけが今では目に入る。父と一緒にシュンランを探しに奥多摩に行ったな、とか、一緒に粘土こねしたなとか、春の陽だまりのような光景だけが心懐かしい。

 

父をそんな風に評価した母もまた、私にとっては父に輪をかけて面倒くさい存在だった。寄ると触ると葛藤していた。二人とも生きている間はさんざんに私を悩ませ、「いつまでこの苦痛が続くのか?!」と陰々滅滅とし「いい加減いなくなってよ、私を開放してよ」と願わずにいられない自分自身を嫌悪して沈んだものだった。

父を送った時は母と一緒だったが、その母が逝ってしまうと途端に「後がない」という思いに駆られ背中がうすら寒いような存在の孤独に捕らわれた。

あんなに忌み嫌っていた母だったが、存在があるというだけで、私という存在を加護していたのだという気づきに打ちのめされたものだった。

 

そんな様々が映画を見ている間中、胸をよぎり、ストーリーの高まりと心底の溢出が輻輳して涙が止まらなくなったのだった。

 

映画を見てから2か月。気が付けば時は経ち、わずか2か月の時の流れが作用して「蛍」を聴いても、切なくはなってもどこここでも涙がこぼれることもなくなった。

6年生だった孫娘はこの4月に中学生になった。わずかな時の流れであっても、中学生になった孫娘はたった昨日までの小学生とは数段「娘」らしくなって入学式の写真に写っていた。

母が逝って2年が経ち、当初ほど存在の孤独におびえ震えることもなくなった。父が逝ったのは6年前の423日、八重桜も花期を終えようという候であった。先だっての日曜日7回忌を済ませた。

 

―ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。―

 

むべなるかな…



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2014/04/04

春の候なり

「じゃあ、ここで降りるね」

バス停でバッタリ会ったお隣の奥様は駅まで乗っていかずに、花トンネルの手前でバスを降りて行った。

あ、アタシも一緒に降りちゃえばよかった。そうチラリ思ったが、独りもの思いながらバスに揺られる方を選んだ。

なぜだか道理は解らないが、ここにこうやって生きているのが不思議なような気もしたりする。

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花の輪をくぐりて

バス通いけり

生かされており

この春の今

 

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見るほどに妖気放たんばかりに美しい桜を見ていると、きっと「束の間の花の命と知って咲いているに違いない」と確信する。

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束の間の

後に散りなむ知りてなお

春爛漫の

桜愛でおり

 

 

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42日は恒例の花見。渋谷桜ヶ丘のさくら通りに面したネパールレストラン・マンダラの窓辺が一時期、一服の桜絵画になる。

 

下は2010411日に詠んだものだ。

桜散る

まりりん発てり

愛娘御す

はなびらに乗り

 

上の句と下の句の間の5文字が足りず、毎年眺めては考えあぐねてきたが、落ち着く文字が見つからなかった。

せんだってまた見返して、つくづくながめていたら、ふと思いついた。


桜散る

まりりん発てり

待ちわびし

愛娘御す

花びらに乗り

 

どうだろう。

ほんとに「待ちわびし」だったかどうだか、もしかしたら「なお生きたいと思っていたかもしれない」が、今となっては解らない。けれど「先に逝った娘が必ず迎えに来てくれる」と言い続けていたまりりんだったから、きっとそうに違いないというところに、4年経ってやっと私が落ち着けたのではないかと思う。枕元に愛娘の七五三の時の写真を置いて、「迎えに来るとき、アタシが年取っちゃってて分からないといけないから」と言っていたまりりんと「待ちわびし」を重ねて、わずかに隙間らしきも感じるが、はみだして邪魔にはならないと思う。


桜花

黄泉より

友をば吹き寄せよ

その花びらの

花車に乗せ

 

「だって桜があんなにきれだから」などあれこれ言い訳しつつ、あああ、飲み過ぎた飲み過ぎた。

飲み過ぎいついでに一首


告っちゃう?

だって友が言い遺したよ

「命短し 恋せよ乙女」

2014040204_2

 

「ぎょえッ!」

など目を剥かずともダイジョービ!

「相手がいれば」の仮想の一首だからして…

 

ってな桜もろもろ春の候なり。

ういーットと。

 

 

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