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2012/06/12

母、逝く…

いつどうなっても不思議はない、と思う半面で、もう3、4年は生きるものと思っていた。
6月11日朝5時5分、母が逝った。
あまりにも急で、びっくりしている。

6月9日
淵野辺のクライミングジム、ストーンマジックから帰ってきて、食事の支度をしていたらホームから電話。「胸が苦しい」と母が訴えたのでバイタルをとったら、血圧が高く、脈は速い。ついでSPO2の値も低い。要受診と判断し、受診の延長線で入院も可能な受け入れ先を探している。病院が決まったら、必要手続きをしに病院へ、ということだった。20時過ぎ?

急いで食事を済ませた。ちょうど食べ終わったころにまた電話が鳴った。母は横浜新緑総合病院に搬送されたという。

当直の医師曰く
「状態はまず安定しているから、このまま帰ってもいいぐらいだが、せっかく来たから検査していきますか。週明け1日2日で退院だな」

病室をのぞいたら、母が目を覚ました。
「しんどい?」
母は首を横に振った。
「胸の苦しいの治った?」
母は頷いた。

なんだかだで家に戻ったら深夜の12時を回っていた。
当座の新緑病院の当直医の診断を聞いて安心はしたが、「翌日の行動」を迷った。
「やはり明日は自宅待機かな~」
翌6月10日は日和田でクライミングの予定だった。迷った挙句、早朝6時50分に予約したタクシーをキャンセルしようとした。何度かけてもタクシー会社は出なかった。業務終了だったらしい。

6月10日
「行ってもダイジョブってことかな?」と考えて、予定通り日和田クライミングに参加した。
駐車場から岩場へ向かう途中ザックの天蓋で携帯が鳴った。ドキリ!
昨夜の当直の医師だった。ドキドキ!!
もしかしたら、このままトンボかな?一瞬よぎった。午前10時ごろ?

「今朝方、ゼンソク様の咳が出て、どうも心臓の働きに原因がある疑いが考えられる。検査の必要があるから、少し入院が長引くと了承してください」

今日明日どうこうではないニュアンスに胸をなでおろし、岩場へ向かった。終日、楽しかった。

夕食にそうめんでもと、台所に立っていたら電話。新緑の医師から。なんかプリプリしている。どうやら何度か携帯にかけたが、私が気が付かなかったらしい。
母の容体が急変した、と。
「心筋梗塞の疑いが濃いが、当院では専門外で的確な診断も治療もできない。治療するのなら移送しなければならない。どうするか?」

言われていることが理解できなかった。「移送するかしないか二者選択」が何を意味するのか。
「ホームに連絡したら、緊急事態の際の方針について意思確認が取れてないと。入居の時点で考えておかないでどうするんです?!」

たとえば母が自発呼吸ができない状態に陥ったとして「気管切開して挿管するか?」と問われれば、答えは「NO」だ。それは入居時に担当に伝えた。が、それと同レベルの状況なのかどうなのかがわからない。わからないものはわからない。

「わかりません」
「じゃ、誰が判断するんですか!?」

私が判断すべきとは知れたことだが、判断の基盤がみつからない。
「どういう治療なんですか?」
「それは専門でないと正確には言えません」
「たとえばの憶測でいいんです」
「まあ、カテーテル治療ですね」
「それって、いわゆる延命治療なんですか?」
「全ての治療は延命治療です」

そんな大前提を聞いているのではないつもりだった。最も当惑、驚愕、困惑のさ中にいる者の神経などまったく頓着ない高圧的なもの言いに「???」は増大するばかりだった。
すったもんだの末、専門科を持つ病院へ移送をお願いした。だって、意識はあるんだというし。

移送先決定を待つ間に、そうめんを茹でた。食べ終えたら電話が鳴った。
移送先が決まった昭和大学藤が丘病院に駆けつけたら母はまだ到着していなかった。
救命救急の受け付けにくれぐれもインフォームドコンセントをとお願いした。母がパスタに絡め捕られるのは避けたかった。

追って駆けつけた夫と診断処置を終えた?医師の説明を受けた。21時ごろ。
心筋梗塞でカテーテル治療が必要だが、治療するか?と問われた。新緑に投げた同じ質問を繰り返した。
カテーテル治療の概略、その延長に待つもの等々、医師はわかりやすく丁寧に答えてくれた。私もきちんと気持ちを伝えた。

それでも迷った。カテーテル治療を始めるということは、すなわち積極的治療を決定したということであるが、治療が功を奏すかどうかは保証の限りではない。その先改善が見られず急変すれば人工心臓に繋がれることになる。気管挿管もあり得る。
迷った挙句治療をお願いした。余りにもの急変に「このまま、終わり」は受け入れがたかった。
その間わずか、もの数分だったはず。意思決定を伝えた直後、医師の白衣のポケットで携帯が鳴った。医師はそそくさと控室を出て行った。

戻ってきた医師は、さらなる急変を告げた。
心臓停止に至った。思わず立ち上がってしまった。蘇生マッサージ開始後30分以上経過。強い強心剤の投与でようやく心肺が回復したが、瞳孔が開いてしまっていると。

もはやカテーテル治療は意味をなさなくなった。呼吸補助など維持しながら、自然な「時」を待つことになった。

しばらくして横たわる母は「しんどい?」に首を横に振った時とは別人のようだった。
「おばあちゃん、大変だったね」
かけつけた次男が頭を撫でた。
「おかあさん、大好きだよ」
私も声をかけた。聴覚は最も最後まで働くというから。

母は低空飛行を続け、病院の指示で一旦家に引き上げた。深夜零時を回っていた。
「腹減った」
夫と次男は夕食がまだだった。そうめんを茹で、簡単なおかずで二人が食事を終え、ひと寝しようとしたところへ電話。慌てて病院へ向かった。車中でようやく連絡のついた長男を途中で拾って駆けつけた。11日午前2時過ぎ。

脈拍が落ち血圧もとんでもなく低くなっていた。
「おばあちゃんタカだよ」
長男が頭を撫でた。私も頭を撫でた。
頭を撫でた瞬間、どうゆうわけか母の血圧が2、3上がった。

4時を回ったころ、仮眠もできる控室に案内された。それならと、夫と次男は一旦家に引き上げ、長男と私が残ることにした。
「タバコも切れたから」
長男にコンビニで携帯の充電器を買ってきてもらっている間、とろッとした。

「急いでください」
ナースが呼びに来た。

瞬間にすべてが終わっていた。
「最後の一瞬を見たよ」
長男の目に飛び込んだ計測器のわずかな母の脈拍数の最後の値「19」が、視認した瞬間「0」になったのだという。

たらちねの母は逝きけり
梅雨寒に
あじさい震え
葉先より雨つぶひとつ

雨音も病窓に届かず
管も器も命繋がず
孫子の声も母に届かず

八十八長き
巡りて果ての病床に
ただ響きおる
ピピピピピー

考えた挙句、遺体は葬儀社に安置してもらった。一昨年叔母の葬儀をしたところ。午後3時に葬儀の打ち合わせの約束をして帰宅した。
疲労困憊で、ただただ眠りたかった。

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