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2011/01/28

クライミング@Thailand-2

1月22日
ゆっくり朝食。8:00出発。
慌てることはない。いわばプラナン中、クライミングスポットだらけ。コテジから10分、20分も歩けば岩場に着いてしまう。外人が浜辺をジョグしていたりして、なんだかのんびり、ゆったり。

「ああ来てよかったな」
ようやく思う。暮れからこっち母のことやらで忙しなく、そして心中切なく暮らしてきて、タイ行きを楽しみにする心境にはとても届かずにいた。タイ語トラベル会話集を買うには買ったが1ページだって開けもせず、どんなところでどんな岩場なのか予習だにせず、ただバタバタ荷造りして出てきた。
開放的で底抜けに明るい海と空。のんびりした人々の居住まいは目にしていると硬く硬直した心身がほぐれていく気持ちがする。この地をこうして訪れる機会に恵まれたことに心から感謝した。やがて母に訪れる状況とそれに痛めねばならない心模様とを予め知った天の慰めの思し召しかもしれなかった。

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間違いなくクライミングのアジアでのメッカのひとつなのだ。どの岩場にも外国人クライマーの姿が大勢だ。しかも、その軽装たるや!「水着でクライミング」と言っても過言ではない。男性はおよそ上半身裸で短パン。女性も腹出しの短パン。その格好で結構難しい岩をリードクライミングだってしちゃう!しくじって向う脛や腹を擦りむくなんてことは想定外、頓着もしていないようなんである。
*写真左は飯島さん

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【1-2-3WALL】はごく海岸ぺりのエリアで、昼を少し回ったぐらいに急に潮が満ちてきて、あっという間に壁前の浜は水没してしまった。
*写真は本郷さん

帰りしな昼食。冷たいビールの旨いこと!!!
たらふく食べてコテジに引き上げたら、誰言うでもなくプール。

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夕方4時過ぎて、ほんの少し涼しくなって2回戦目のクライミング。【WEE’PRESENT WALL】へ。ここもまた、色といい、形といい「どうやってこんな岩にできあがったのか?」な奇岩。
*写真は本郷さん

1月27日
母の顔を見にいった。10日ぶりぐらいかな。
ケアスタッフの話だとトイレコントロールがいよいよ難しくなっているようだ。部屋内のポータブルトイレにさえ間に合わず、しかも汚物を踏んで、その足で室外に出てきたりする。やむを得ず布の下着は全て片付けて、タンスには紙のケアパンツだけを入れるようにしたと。壊れていくスピードが加速している。

「娘です」
リビングでくつろいでいる他の入居者に自慢げに話す。
「いつもとぜんぜん違うね。ニコニコで」
心身ともにまだしっかりしていると見受けられる入居者の方が応える。
「お母さん、いつも黙って静かにしてらして、静御前って、尊敬してるんですよ」

へー、と思う。回りの入居者の思想批判などやらかして、スッタモンダするんじゃなかろうかなんて心配はどこへ行ったんだろう。なんだか…

「来てくれてありがとう」
ほんとうに嬉しそうに母はそう言った。

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2011/01/27

クライミング@Thailand-1

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1月21日の機内朝食
なんだかんだで2週間近く更新できなかった。
実は1月20日から25日までタイに行っていた。20日の深夜12時20分イコール21日の0時20分発のタイ国際航空で羽田を発った。

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バンコク着5:20。機を乗り継いで2時間ぐらい?クラビ空港着9:20。車で20分ほどのアオナンビーチから船で30分ほどさらに南下して、かのプーケット島の対岸のリゾートビーチ、プラナン・Railay Village Resort着。

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1月21日のプラナンお昼ご飯
荷を解いたら、そこそこお昼ご飯な感じ。近くのレストランで。

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気温34度は如何んせん暑い。水嫌いでも食後はほろ酔いでプール。なにせ泊まりはコテジが銘々に充てられていて目の前がプール。

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プールから上がって部屋へ入ったら旅疲れがドッと出てトロトロ。
バスルームだけでも10畳ほど。寝室およびリビングエリアもその2倍?ぐらいのデラックスな部屋に、これまた広々なダブルベッド。爆睡して目が覚めたら晩ご飯な…

クライミングは明日からってことに。

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2011/01/14

春・無常!!!-3

「そろそろ限界かなあ!」
母の主治医はそう言った。何事かあると厄介になるのは母に始まったことではなく、父も何かにつけて世話になった病院だった。

母の怪我は本来ならば縫合が必要なほど深く切れていたのだが、怪我をしてから数日が経過していて傷口内に溜まった血液が凝固して栓をしたようになってしまっている。細菌培養床にもなりかねない「栓」の上から縫合するわけにもいかず、そのまま抗生剤軟膏で新細胞が上がってくるのを待つ、ということになった。

なので、実は入院の必要性は決して逼迫しているわけではなかった。「入院措置」になったのは一重に病院の「配慮」なのだ。可及的速やかにしかるべき収容場所を確保するまでの執行猶予期間を確保してもらったというわけだった。

事態は「説得して、どうのこうの」なんという安閑なところには全くなかった。もう1日だって母を独居させておくわけにはいかない。

「1日ここにいるのは、つまらないなあ。テレビもないんだ」
帰り際、仕方ないと承知しながらも、ぽつんとぼやいた母の言葉が胸につかえた。一刻も早く入居先をみつけなければ。ケアが行き届いていて安心していられるところ。病院じゃない生活の場、テレビもあるところ。
「きっと年内に入居!」電車に揺られながら固く決意した。

翌日から行動開始。
車で5分もあれば行けるところに、父が入居していたと同じ系列のホームがあった。電話連絡、面談・見学申し込み、契約から入居までの段取り…

間で叔母の相続方を引き受け、母の後見もお願いすることになっている司法書士さんと同行して母の病院を見舞ったり、入居予定のホームの「入居予定者」への担当ヒアリングに同行したり、診断書を主治医に再度書き直してもらうために書類を提出したりで、何度も病院に通った。

お金の算段も骨が折れた。入居ための「入会金」が300万円。その上に叔母の持っていたアパートを処分するのに「立ち退き料及び賠償金」として300万円を用意しなければならなかった。期限は12月27日。母の入居日と重なった。

叔母もまた、亡くなる少しばかり前には認知症を深くして、最後には渋谷区長措置で保護されたのだ。自我も彼我もなく自他もなく、善悪の判断もつかなくなって、アパートの大家としては無論、人としてしてはならないことをしてしまった。ために訴えられていたりしたのだった。母の周りで進行していた全てを肩代わりしながらでないと、何もなせない状況だった。

郵便局も銀行も1日に50万円以上引き出すためには「本人確認」を要求される。母の介護保険証など提示すれば、たちまちルール違反を見破られてしまう。どう考えたって限度額ずつ引き出してたのでは、到底期日に間に合って金子を用意することはできない。

ごく地元の、ごくごくローカルな郵便局に「ぶっちゃけ相談」をかけた。「ぶっちゃけ相談」は今度が初めてではない。見送った義母、父の時も同じことで四苦八苦した。その時も郵便局では親身に相談に乗ってくれた。

「定期預金を解約するためには『委任状』が必要です」

サインは母の代わりに長男のヨメさんにしてもらった。局員さんは暗に特段、筆跡鑑定がなされるわけではないと感づかせてくれたし、1通の委任状で「獲得希望条件」を全て満たすために、どう記入すれば妥当か指導してもらった。日頃のやり取りを通して、ちゃんと人間関係が構築されていくことが可能な「ローカル」ならではに違いなかった。

ともかくも「年内入居・最優先」を念頭にホームの担当にも動いてもらい母は「ライフコミューン松風台」に12月27日に入居した。
朝10時前に三鷹の病院から前以て依頼してあった介護タクシーに乗って、母をホームに入居させ、契約書を作成し、昼食を摂る間もなく地元の郵便局にとって返し2箇所に必要金額を送金した。

12月28日、29日は次男のところの娘2人がお泊りに来て、30日には一緒に新横浜アイスセンターへアイススケートをしにいった。
31日から1日、2日はグダグダになってくたばった。3日に5km、4日と5日には1時間ランニングしたら6日には腿筋痛に襲われた。

そんなこんなで、ホーム入居契約に必要な書類、母の住民票と私の住民票はまだ提出していない。後見人申し立てに必要な私の戸籍謄本と印鑑証明もまだ用意ができていない。

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2011/01/13

春・無常!!!-2

 

母のホーム入居の経緯の続きである。

辛気臭い話しで申し訳ないが、ここまで「書いてしまわないと」の想いが強いのはなぜだろう?

 

1212

長野県・佐久の岩場にクライミングでやってきて、上田駅近くのホテルに泊まった。その部屋に朝の7時前に母の住地域の民生委員さんから電話をもらっただけでも「何事かあらん?」で恐怖なのに。話を聞いて顔から血の気が引いた。

民生委員さん曰く、母は1212日開催になるご贔屓の議員さんの支援団体主催の忘年会に行こうとした。前日の1211日に、行き方がわからないので、隣のおばちゃんに相談しに行った。相談されたおばちゃんは三鷹から新宿へ「母を連れて行くことを請け合い」その旨を民生委員さんに伝えた。隣のおばちゃんもかつて民生委員を務めたことがあり、現民生委員とも顔なじみだったらしい。

話を聞いた現民生委員は「阻止すべき」と判断をした。隣のおばちゃんも76歳。ヨタヨタ歩きの母が駅の階段を踏み外したりしようものなら、おばちゃんもろとも真っ逆さまは自明の理。

民生委員さん判断は実に正しい。民生委員さんは「隣のおばちゃんに『風邪を引いたので行けなくなった』と母に断りを入れるよう示唆しようと思うが、それでよいか?」と私に問うたのだ。

「本来なら私がかけつけなければならないところを済みません。宜しくお願いします」

応えは言わずもがなだ。

 

2時間後、再度電話が入った。

民生委員さんは是が非でも母と隣のおばちゃんの道行きを阻止すべく、隣のおばちゃんと供に母のところへでかけた。ところが、なんと母は忘年会のこと自体をすっからかんと忘れていた。

それだけなら「なあんだ、そっかあ!あはは」なものでもあろうが、民生委員さんの続きの話しに思わず受話器をもつ手が震えてしまった。これまでに何度も家の外に出かけた母は帰り道がわからなくなって、ヤクルトのおばちゃんやら、新聞屋のおにいさんやらに家に連れ帰ってもらっている、というのだ。

 

母からはそんな話しは聞いたことはない。ということは当然、そういった事実があったことすら母の記憶にはないということだ。

「これは、どうしてもしかるべきところへ入れなければ!」

固く決意した。罵詈雑言のやりとりも辞さない覚悟で。

 

何事か大事な話しを進めようとするといつも母とは諍いになる。ついこの間のことだ。父が亡くなって、その相続をどうするかの話しをしていた。

「あんたにあげても、ただの金だ。故人の意思を尊重すれば、何か社会的意義のある使途を考えないといけない」

母は公然と言い放ち、ついでに

「親の面倒みるなんて言って、子どもは自分の都合のいいようにするだけだ」

と聞くも憎たらしいことを言ってのけたのだ。「ホームへ入ろう」など言えば、また何こそ言われるかわからないと思うではないか!

 

1216

「いざ出陣」ぐらいのつもりで実家に向かった。何が何でも母にホーム入居を納得させるべく。

民生委員さんから聞いた話を母にして「もう独りは無理」だと説いた。ただし、せいぜいプライドに障らないよう気をつけた。認知症の「に」の字も言わず、頭蓋骨骨折と硬膜下血腫の影響がでているから「リハビリが必要」と、まあいうなればずるいレトリックを使い「元気になったら、また帰ればいい」と望むべくもない嘘を言って欺いたのだ。「毎日ケアプラザにいるようなものだもの、リハビリも進む」なんぞ言ったりもして。

ところが…

「うん、そーする」

母は意外にすんなり受け入れ、「それなら費用が必要だから」と言ったら、「お金、あると思うけど」と言いながらごそごそ通帳と印鑑を出して私に託した。

 

母が納得してくれたのでほっとしたら、ふと母の様子がおかしいと気がついた。部屋の中でダウンのコートを着ている。「寒いのかな?」といぶかっていたら、やおら母がコートを脱いだ。


「???!!!」

 

なんと母は素肌の上にファーのベストを着て、その上にコートを羽織っていたのだ!あまりものことに思わず目眩がしそうだった。で、家の中を観察して歩いた。そしてことの顛末を察知した。

下着やら長袖やら衣類が洗濯機の横の洗面台上にうず高く積まれていた。びしょ濡れで洗面器に入れられて。何も言うまい。


「お母さん、洗濯機回していくね」

「ありがとう、助かるわ」

 

母はトイレに間に合わず、次いで洗濯機の操作がわからなくなったのだ。


「もしかしたら寝床は?!」

心配になってベッドの寝具をひっくり返した。心配は的中どころか血の気が失せて恐怖した。寝床にはかなりの広範囲でべっとりと血糊のついた衣服が混入していたのだ。

ついこの間、救急搬送されたばかりだというのに、母はまた後頭部に傷を負っていた。髪の毛が血糊でカピカピに固まっているのを見つけた驚きもだが、問いただしても、どこでどうして怪我したかはもちろん、怪我したことさえ母の記憶にはないということがわかった時は、それはもう「恐怖」「驚愕」「絶望」渦巻く暗澹に陥落した気がした。

 

病院へ連れて行った。カピカピに固まった髪の毛を消毒液で溶かしてみれば左後頭部にポッカリと穴が開いていた。

 

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2011/01/11

♪ゆーきーよ~いーわーよ~♪

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1月8日の晩ご飯
赤岳鉱泉のビーフシチュー。旨し!!!

1月8日
赤岳山荘から園庭まで45分、園庭から鉱泉まで50分で上がってきた。ワタシとしては「!!!」な快挙だが、ワタシがいなければメンバーはもっと早く行けただろう。着いてすぐのラーメン、頑張った後だから最高!

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鉱泉前の雪景色。
11月中旬からこっち、イロイロだったので、ずいぶんしばらくぶりな雪景色に改めて感激!

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昼食後のアイス?!
青空に氷壁が映えて美しい!

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*画像×2・上は本郷さん

1月9日
硫黄岳登山。
07:50出発時マイナス5度。ちらちら降雪。
10:08赤岩の頭着
10:24登頂
11:15赤岳鉱泉着

赤岩の頭手前からショートロープ。ロープがあるのが心強かった。ものすごい風。降ってくる雪が風で横殴り。風が巻き上げる地吹雪と両方で目出し帽の隙間が凍傷になるんじゃないかと思うほど冷たい。ってか痛くて死ぬかと思った。体感気温はマイナス15度ほどか?!

「ぜんぜん疲れてないだろうから、中山展望台までタイムトライアルする?負けたらビール、おごりよ」

って、本郷さん!アタシ、クタクタですけど~トホホ。
顔中の拒否反応に応じてもらったのか、前日にひき続き昼食後はアイス。2本はなんとか「ギャーギャー」言いながらも上まで上がったが、3本目は続けさまに2度もアックスを落としてしまった。そのつもりもないのに、なぜかポロリと。でもう、止めた。アックスって落とすと時にバウンドするよ。ビレーヤーの膝に当たりそうになったって。
あぶねーあぶね~!!!

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1月9日の晩ご飯

山小屋なのにこんなご馳走で、いいんでしょうか?!

1月10日
鉱泉から降りる途中の峰の松目沢下で「雪崩・安全講習」受講。出かける前の机上講習も合わせ、なるほど~!勉強になった。

ビーコンを買うことにした。
雪埋没体験。他のメンバーは埋められて数分も頑張ったのに、ワタシはとてもダメ!!!
「まだ何にもしてないよ」
半分も埋まらないうちにパニクって、飛び出してしまう情けない顛末。

なんか幼児体験にトラウマあるのかな~!

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2011/01/06

春・無常!!!-1

 

正月休みだというのに山にも行かず家にた。

さぞかし「らしい」正月だったろうと思いきや、暮れも晦日もバタバタと時間が過ぎた。師でもないのに走り回った挙句に体調を崩してくたばってしまった。賀正の感慨もない「よくよく考えたら正月なのね」な三箇日だった。

 

母は1227日にホーム入居した。1020日からたった2ヶ月の間に、なんだかものすごい急展開だった。決して仲のよい母娘というわけではなかった。寄るとさわるとお終いには罵詈雑言の投げつけあいになるので、なるたけそばに寄らないようにしていた。

その口から生れたような気丈で達者な母の急激な変貌振りに、どういうわけかそこはかとなく哀しくなった。もしかしたらまだ上手く整理し切れなくて混乱状態なのかなとさえ内省する。

なかなかいっぺんに書き上げられなくて、チョビチョビ書いていたら、とんでもなく長くなった。あまりにも長いので数回に分けてUPすることにした。

ほんとうに書かなければならないことは、なかなかに辛くて筆が進まないものだと実感している。私事をツラツラ書きたてて、お目を汚すようで申し訳もないのだが、ご辛抱いただきお付き合い願えればこの上もなく有り難き幸せである!

 

1020

母は玄関の切れた電球を替えようとして脚立から転落。右後頭部裂傷、頭蓋骨骨折及び硬膜下血腫。思えばこの時はまだ、母はそこそこしっかりしていた。母は自ら通報し、救急病院に搬送されたのだった。

 

1022

かかりつけ病院へ転送、入院。

そうそう、ちょうどヒマラヤへ行く直前だった。20日、トレーニングで海谷渓谷を歩き、降りてきたところに知らせが入って、慌てて糸魚川から急いで帰った。

21日、救急的状態は脱したというので退院勧告を受け、かかりつけ病院とやりとりして、ようやく翌日転院にこぎつけた。

まったく救急の負うところを百歩譲って理解したとしても、硬膜下血腫を起こすほどの頭部の怪我・頭蓋骨骨折の86歳をただ退院させようとするなんて、救急医は「医」のなんたるかを再検証するがいい。

転院の迎えに行ったら、母はぷりぷり怒っていた。

「全く、なっとらん!この病院の精神教育はできてない!!」

大声で言うのには、ほとほと参った。

どうやら母はベッドに拘束されたらしい。ICUは命の土壇場を担うところだから、患者は大概瀕死の状態、意識もなかったりする。ベッドも患者が乗ったり降りたりするのに都合のよい高さや仕様にはなっていない。

説明したけれど聞き入れなかったのか、聞いても忘れてしまうのか、はたまた説明不足なのかはわからないが、恐らく母はトイレに行くためにベッドを降りようとしたに違いない。

状況判断できない母もよくないが、死の淵から人を救うということと人の人格を尊重することがイコールで結ばれている救急医療のあり方だったかどうかと問いたくもなる。

 

持病の糖尿病の数値や肺の状態など要観察ということで1ヶ月の入院となった。

「ヒマラヤ登ってくるわ」と言ったら「しっかり頑張ってらっしゃい」と励ましてもくれた。

 

1130

ネパールから帰国して間もなく、母は退院。その足でケアプラザへ回ってケアマネさんと面談。

義母の時も、父の時もそうだが母に関しても地域福祉のケアマネジャさんとは密にコンタクトを取るよう心がけている。

「ずいぶん歩くのがゆっくりになりましたね」

怪我をしたこともいち早く伝えたので、ケマネさんは母を見舞ってくれていて、どのくらい母の身体能力が低下したか実際に確認してくれている。

「まずは介護度再認定申請をし、ヘルパー訪問頻度を増やしましょう。ケアプラザ通所も始めましょう」

ケアプラザ通所は面談と申し込みから実現までに1ヶ月ほどかかるというが、ヘルパーの訪問は退院した翌日からそれまで週2だったのが週3になった。介護度再認定は111日に私も同席の上、自宅にヒヤリングに来てもらう約束になった。

 

「弱くなった足のリハビリは、やっぱりプロフェッショナルの指導が必要だよ。独りで散歩してまた転んだりしてもいけないし。怪我した後なんだから気をつけないとね」

通所に関しては、なんとか母をいいくるめた。実際、母にとって必要なものは細かい「見守り」網と適度な運動指導と何よりも社会性の保持だと思えた。

「そうだね、足は強くしなくちゃいけない」

 

「ほらほら『俳句』とかっていうレクリエーションもあるよ」

母はケアプラザへの通所を比較的すんなり受け容れた。長いこと国語の教師としてあるいは教養学部の教鞭を取っていた母にとって「書道」だの「俳句」、「水彩画」だのの項目が活動スケジュールに入っていることも目を引いたのかもしれない。

 

129

退院後診察、受診。

実は母娘で父の相続もまだしていなく、母は叔母の相続の途上でもある。昨年中に3回ほど詐欺にひっかり、大枚をもっていかれたなど、様々を考えると、今後は母の財産管理は公明公正な第3者・専門家に委ねた方がいいだろうと、ようやく母も納得するにいたり、兼ねてより司法書士に依頼していた。司法書士が家庭裁判所に申し立てをするにあたり、医師の診断書が必要ということで、退院時に主治医に依頼していた。この日は退院後の医療的な所見の他に主治医による長谷川式の認知症深度のヒアリングも受けた。

 

「かかりつけ」の病院へは母は持病の糖尿病の経過観察のために、これまで1ヶ月ないし2ヶ月に1度は通っていたわけで、その最寄駅はもちろん、40年以上は住まいした今の家とはつい隣駅で、いわば隅から隅まで庭のように知っているはずなんだが、どうも「どこもかしこもがわからない」おぼつかない様子なのだ。

ついこの間までタクシーの運転手さんに細々説明するのは母で、私は乗っているだけだったんだが、もう母は「どこをどう走っているのか?」のようで、案外乱開発されてきた一方通行だらけの狭い道は、ナビが入っていなければ方向音痴の私には到底、案内できなかった。

それでも家にもどれば、何くれとなく洗濯だの用事をしたりしているのを見れば、安否確認網を密にして、支援の手数を増やせば、従来どおりの生活ができそうだという私の認識だった。

 

1211

ロッククライミング講習で佐久の岩場にでかけた。上田泊りで翌12日は終日、救急講習・MFAMedic First Aid)の予定だった。

1212

早朝、まだホテルの部屋で寝ているところへ携帯が鳴った。出たら母の住地域の民生委員さん。

「何かあったか?」ドキドキした。

話を聞いて愕然とした。この時「母をホームに入れなければ」きっぱり決意した。

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